「笑い」も社会学も斜に構えること。別の角度から見るとか、笑ってやり過ごすというのは、すごく大事なことではないかなと思います ー田中俊之


田中
 冒頭の話ともつながるのですが、正論を言って、それを守らなければいけない、ルールを破ったやつはいくらたたいてもいいという社会は、すごくみんなにとって生きづらい社会です。笑いについて先ほど言いましたけれど、いまの社会は、斜に構えるとか、風刺するということの力を、もう少し見直してもいいのではないのかなという気がします。

山田 いろいろな見方をしたほうがいい。それを自分に癖づけた方がええな、と思うんですよね。 いろいろな見方があって、いろいろなことを言ってええけど、当事者意識というか、全体主義的に「最終的にこう思え」という空気が、何か気持ちが悪いなと思うんです。

田中 分かります。批評家などを見ていても、自分が語れそうな事件が起こったときに、すごく饒舌になって、被害者の方や犯罪のことを考えるよりも、この問題、こう切れちゃうよとアピールしてくることが、僕は、すごく気持ち悪い。

山田 みんな語りたがりなんですよ。

田中 そういうところは、もっと冷静であっていいと思います。
僕がもっとも尊敬する社会学者であるピーター・L・バーガーの『社会学への招待』に、こんな一節があります。

われわれには自分たちの動作をやめて自分たちを動かしてきたカラクリを見上げ認識するという可能性が残されている。この行為にこそ自由への第一歩があるのだ。そして、この行為のうちにわれわれはヒューマニスティックな学問としての社会学の最後決定的な正当化を見出すのである。

ピーター・L・バーガー『社会学への招待』

つまり、いま言ったようなワイドショー的な、1つ問題があるとワー!キャー!言ってみんながそれについて語りたがるということについて、それ自体を批判するのは簡単なんですが、どうしてそういうことが起こっているのかということを冷静に見る必要が、僕はあると思うんです。
「笑い」というのは斜に構えることと言いましたが、社会学も斜に構えているんです。みんなが普通だと思っていることを、どうしてみんなが普通だと思うのかを研究します、という学問ですから。

山田 考え過ぎやねんという(笑)。

田中 なんでそんな斜に構えるのとか、なんで当たり前だと疑うのかと思うでしょうが、そのからくりを見上げて、自分が自由になれる可能性があることが、僕にとっての「救い」です。
あとは、やはり、男爵がやっている「笑い」。人間にとっていろいろなことがあるけれど、笑って別の角度から見るとか、笑ってやり過ごすということは、すごく重要なことではないかなと思います。

山田 そうですね。やり過ごすというのは本当に大事やと思いますよ。いちいち全部正面からぶつかって、一生懸命頑張らなアカンとなるとね、人生が工業製品の耐久検査みたいになりますからね。ほんとに。

田中 やはり、男爵とトークイベントをしてよかったとすごく思いました。
正論でヒキコモリは無駄じゃないとか、男だったら一生懸命働いて然るべきだ、ということを、今日は別の角度から見てきたわけです。特に僕ら中高年にとっては、あと残り30年、40年、生きていかなければならないのですが、わが身を振り返る機会が男性の場合は少ないんですね。働いていると毎日過ぎていってしまうので。

山田 確かに。三河武士みたいな生き方、死に方せなだめですものね。背中を振り返ったらアカンというか、逃げたらアカンみたいな。

田中 だから、こういうトークのイベントを通じて、ぜひわが身を振り返って、今後の人生を考える少しでもお役に立てばよかったかなと思います。

山田 僕も本当にそう思います。

田中 今日はありがとうございました。

img_1884