質問4 うまくいっているカフェや場は、ノウハウやコツでしょうか、それとも、コミュニティマネジャーのキャラクターや才能といった個人的な資質で決まってしまうのでしょうか?

坂倉 二つ、よくお話しすることがあります。一つは、「私の器以上の場はできない」ということです。自分の作る場というのは、自分が声をかけて集める、あるいは自分自身が開くことによって集まってきて、そこで受けとめられる人の多様性や、起こることの極端さみたいなものは、自分の願望とは別に、自分自身の実力や器のようなものに左右される、ということ。そういう意味でいうと、すごく器の大きな人もいれば、もう少し修行をした方がいいという人もいる。

だけど、結局、自分らしい場しかできなくて、安易にそれを超えてやろうとすると、いろいろ自分が傷ついたり、危険な場所になってしまうことがあると思っています。

器の大きさも大事なのですが、そういう場所を作っている人ほど、「いや、私は何もしていませんから、ハハハハハ」と言います。山納さんに聞いても、たぶん「いや、いや、僕は…」というようなことを言うかもしれませんが、根掘り葉掘り聞くと、嘘です(笑)。

やはり、こういう人には、「こんな人に、このように関わってほしい、それが本当にいいことだと信じているんです」という思想がちゃんとあり、その次に、願望だけでなくて、「自分が考えるような人が集まってきて、関わり合えるには、私が何をしたらいいのか」ということをすごく考えています。だけど、ほぼ本能で、暗黙知のうちにやっているので、聞かないと教えてくれない。というか、聞くと、「そう言えば、そうだったわね」とご自身も気づく、ということが結構あります。

大事なことは、こうしたいなと思ったときに、そうなるためには何をどう工夫したほうがいいのかを、しっかりと考えた方が、より自分の作りたい場に近づけられるのだろうと感じています。

山納 人を受けとめるとか、人と関わるというときに、すごく思うことがあります。

例えば、人のふるまいに何パターンぐらいあるのだろう、ということを考えたりします。200パターンとか500パターンとかあるのだろうかと。自分にそのいろいろな人のいろいろなパターンを受けとめられるだけの度量とか素養は備わっているのだろうかとか、そもそもそんなことはいったいどこでどう学んだのか、学校では教わっていないよな、一体どうしたんだろう、ということをすごく思うんですね。

結局答えはないですよ。どこの誰が来るかわからない、何をするかわからないという場所に、平然といられるとか、そういうことに対処できるということが、たぶん器としてあるのだろうなと思っています。

「博覧強記」という言葉があり、古今東西の物事を知っている人のことを言うのですが、僕は、8年ほど前から「博覧強記の夕べ」というサロンを開いて、本を紹介し合い、いろいろなことを知っている人が一番格好いいという場づくりをしているんです。毎回十数人が集まり、知識としていろいろな球を投げてくる人がいて、それを誰かが「あ、それはね、その小説家はこういう人で…」と答えたりします。

物事をすごく知っている人って、知識のある人が相手だとワーッと楽しそうにしゃべるけれども、誰もわかっていない時にさみしい思いをすることがある。それで、実験的に知識を受け止める場を作ると、「自分が受け入れられる場所なんだ」と思ってやって来るので、単に威張っているだけではなくて、知のサミットみたいなものができてくる。

これは、知識のレベルの話にすぎません。本当にいろいろな人、病んでいる人もやって来るかもしれない、怒っている人もやって来るかもしれないときに、大事なことは、知識のレベルではなく、その人がしゃべりながら、本当は一体何が言いたいのか。単に「私はここにいます」ということを伝えたいために、すごく難しい漢詩の話や政治の話をしているのかもしれない。その人を、知識ではなく、そういうものとして受けとめることが、構え方としてはあるのだと思います。

どういうものを器と考えるのか。自分がそういう構えをしているということなのか、知識として受けとめようとしているのか、いろいろあって「深いな」と思っています。これ以上の答えを今は持たないまましゃべっているのですが、でも、何かしら受けとめようという気持ちを持っていること、「私は、これは無理」ということではない構え方でその場にいる、ということがありそうな気がします。

坂倉 本の中で、山納さんが「場を開くということで自分が変わってしまう可能性を配慮していない人は、あまりよくないのではないか」ということを書かれていて、本当にそうですね。コミュニティカフェや居場所づくりをやると、人生が変わると思うんですね。

人が集まるところを作るというのは、人生のある時間を他の人と一緒に過ごすということです。自分がすでに蓄えている技術や知識を一方的に提供すればできるというものではなく、そこで自分が悩んだり、問われたり、何か困難に直面して、これまでと違うやり方を試みたり…。やはり「開く」ことを通じてしか、新しい場はできないのではないかと思います。

ですから、資質がある人やノウハウを身に付ければできるというわけではない。やっていることにちゃんと自分がその場にいて付き合う、寄り添う、伴走するんだという気持ちを持っていさえすれば、逆に言えば、誰にでもできると思います。

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5 『つながるカフェ』に書かれていた「自分を留守にしていた」とは?