ちょっとした工夫がコミュニケーションのきっかけになる
坂倉 「人が集まってきて関わる」というのは、やはり、何かちょっとした工夫によって促進されることがある。もちろん空間的なことも要因としては、あると思います。
芝の家は、角地にあるので建物の2面が道路に接しています。玄関から入ると駄菓子コーナーがあって、真ん中にメインの空間、奥に小さなスタッフの作業室があります。
写真には写っていませんが、左に座っている方の奥にスタッフの作業室があります。
建築学会の論文で読んだのですが、こうしたコミュニティカフェで重要なのは、座る場所がまちまちであることだそうです。芝の家はまさにそうで、縁側にも座れるし、部屋の中にも縁側に面した窓に座れるスペースがあります。ちょっと大きめの卓袱台を囲んで座れたり、椅子やソファなどいろいろな座る場所があって、訪れた方が、今日過ごしたい所を自分で選んで座ってくださるんですね。
皆としゃべりたいと思ったら、皆が座っているところに座るし、今日は1人で本を読みたいな、静かに過ごしたいなと思えば1人になれる所に行ける。これが均一の椅子と机しかないと、来た方に合せることが難しくなり、スタッフがそれを一生懸命作らないといけなくなってしまうんですね。芝の家は、訪れた人誰もが居心地がいいと感じる空間になっているんだと思います。
それだけではありません。「ご自由にボックス」というものが縁側にいつも置いてあります。できた当時からもらい物が非常に多いんです。「きみたち、ちゃんとごはん食べているのかね」と食事を持ってきてくれたり、「味噌汁作り過ぎちゃったから、皆で食べて」とか、「この卓袱台使わないけど、よかったら使う?」、「茶碗が余って捨てるのも何だから、どう?」と、親切で皆が持ってきてくれる。
全部自分たちで使える物ばかりではないので、あるときからそれを縁側に出して、自由に持っていっていいですよということにしました。こうした縁側の様子を見て訪れた人同士の会話が起こります。
中にある駄菓子コーナーも、子どもが遊んでいてお腹が減ったときに食べるというのもあるし、駄菓子だけ買いに来て、ちょっと立ち話をする親子がいたりと、これらの小さい工夫がちょっとしたコミュニケーションのきっかけになっています。 どうしたら「自分が自分自身と繋がっている状態」になれるのか?
山納 僕は芝の家をみて、「自分が自分自身と繋がっている状態」に、どうやったらなれるのだろう、ということを考えるんです。
先ほど「コーヒーのお客様」と呼ばれた話をしました。「コーヒーのお客様」と言う店員は、役割としてそこにいますよね。「自分」としているのではないのだと思います。おじいちゃんに声をかけられてギョッとした人は、たぶん体が過剰防衛モードになっているんでしょう。人に話しかけられて、それに普通に答えるという状態ではない。「自分が自分自身と繋がっていない状態」ではないか、という仮説を僕は持ちました。
それで芝の家に行ったのですが、役割や過剰防衛を感じなかったんです。「何でこんなことになっているの?」というのが一番の疑問でした。
いろいろ伺ったところ、芝の家では、毎日、芝の家を開ける前と一日が終わってからミーティングをやっているという話を聞きました。そして、絶対にそれが効いているんだという確信につながっていったんです。ぜひ、このミーティングのお話を聞かせてください。
坂倉 やはり山納さんはすごく鋭い。場をそのような視点で見てくださる方って、意外と多くないんです。「こうなったらいいな」ということだけではなくて、「どうしてそうなっているのか」という作り手目線で社会に関われる人がもっと増えたらいいなと思います。
〈後編に続きます〉
お当番同士の関係が、来る方に影響を与え場の雰囲気を作っていく
何が起こるかわからないことを楽しみ、それに付き添う
振り返りの時間が、芝の家の文化をつくる