上田 場を持つと困るのは休みがないことで、本当に出不精になります。
でも、私、ずっと世界が怖かったんですよ。社会が怖い。社会が到底自分の計り知れない何かで動き、運命のような滝の中でワーッと動いているような気がして、自分がどういう立ち方をして、どういう日々を暮らしていいのかさえもよく分からなくて、不安のままずっと暮らしていた部分がある。そして、新聞などを見て凄惨なニュースをみては、おののき、何もできない自分が情けなくて、自分のことがすごく嫌だったんです。釜ヶ崎でココルームという現場を持ったら、実際に世界に出られないわけです。

けれど、日々、釜ヶ崎でたくさんの人々と出会い、いろいろな出来事にあって、大変な場所でも頑張っている人はいる、とすごく確信を持ったんですね。

そのときに、例えば、しんどい現場や事件があっても、「きっとその場所で頑張ってらっしゃる人がいはるんやろうな」と思えました。私もここで頑張ろうと思うし、会ったことのない人ですけれど、頑張っていってほしいなと思うし、もしその人たちが釜ヶ崎のことをふと思ってくれたときに、「頑張っているよ」と言える自分でありたいなと思うようになりました。出歩けないけれど、何か見えてきたものがあると思っているんですね。


ココルームの転換

山納 若い人で場づくりをしたいという人がすごく増えてきています。若い人たちが集まって一緒に伸びていこうという場、たぶんコワーキングスペースやシェアオフィスなどもそんな原理だと思います。自分が将来何になれるのか分からない。でも、何者かにはなりたいと思って、いろいろな人と関わって、夢見て先を進んでいくという場です。

一方で、放っておくと落ちていってしまう人や誰かが支えないといけない人、そうした人たちのための居場所も必要で、この『つながるカフェ』では、この2つは違うものだということを書きました。

当然、前者のような場も徹底的にやったらいいし、僕もそういうことをコモンカフェやコモンバーでやってきました。

でも、少し大人になって、自分が子どもの世代や社会全体に対して責任を持たないと、と考えたときに、仲間とつるんでいた世界から、もう一歩出ないといけないと思いました。

けれども、その世界には、相当なレンジの広さや懐の深さがないと入っていけなかったり、そこにいる人たちを支えることができなかったりする。どしたらいいのかを少しでも見つけたいというのが、今回、假奈代さんに取材をさせていただいた理由です。

上田 私の場合は、「聞く」ということにすごく関心があったんですね。聞きたいという思いがあるわけです、好奇心。

でも、「聞いてどうすんねん」という部分もあるじゃないですか。私は何の立場でその人の話を聞くのか。問題を解決したいわけでもない。でも、聞いてしまうという自分の振る舞いがあるんですね。でも、話を聞くと落ち着いてよくなる人も中にはいて、聞くって何やろうと思っていました。

そうして、ココルームを始めて5年もたたないうちに、私自身の詩作の手法が、人に話を聞いて詩をつくるというものに変わったんですね。

実は、私は釜ヶ崎のおじさんに聞きたかったんですよ。人生って何かとか、これからたぶん社会は資本主義から変わっていくけれど、その資本主義のまさに底辺で生きてきたおじさんたちは、次にどんな社会を思っているんだろうとか、聞いてみたかったんですね。

「でも、聞いて私、どうするの?」という躊躇があったわけですが、好奇心のほうが強くて、釜ヶ崎で喫茶店のふりをして、自ら編み出した「聞く」という態度から詩をつくる。そして、とうとう釜ヶ崎芸術大学が動きだして、おじさんたちと一緒に聞いて、お互いに詩をつくるということもすこしずつできるようになりました。

いま目の前のことを正直にやってきたのですが、これって出会いだから、先は考えていなかったんです。

ところが、長く活動していると働いているスタッフも歳をとって、お子さんが中学生になる。3年後は高校生やなと思うと、ふと、高校生がマクドナルドでもいいけれど、ココルームでアルバイトをしてもらえたらいいやろうな、と思ったんです。そういう選択肢もあるといいなあと。

それで、今日明日ぐらいのことしか考えていなかった私が、3年後、100年後みたいなことを考えてしまったんです。その瞬間にココルームのビジョン、あり方が少し転換しました。

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