家庭に持ち込まれた「業績主義」と「普遍主義」
私たちが暮らす近代社会は、公的領域と私的領域に分かれています。公的な領域とは、政治や経済活動に関わる部分です。私的な領域とは、私たちの毎日の生活、子どもを育てる、人を看取るといったプライベートな生活に類することです。
この公的な領域では、「業績主義」と「普遍主義」が大切にされている。つまり、近代社会の公的領域においては、生まれた場所や国籍、人種、あるいは性別で人を差別しないというのが大切な原則です。出自とは関係なく、その人の能力によってのみ評価される。これは本当に素晴らしいことだと思います。
もう一つ、「普遍主義」とは、公的な領域での原則を、すべての人に性別や身分、国籍に関わらず平等に適用するということです。公的領域においては、私たちはこの2つを規範にしています。この規範のある公的領域と私的領域をはっきり分けたのが近代社会ともいえるのです。
一方で、プライベート、すなわち私的領域には、どのような規範があるのでしょうか。西洋社会では、私的領域の規範としておそらくキリスト教、あるいはそれぞれの国や地域に様々な文化や生活の倫理があったのだと思われます。
日本は、明治以降、近代社会の確立に公的な部分では努力してきました。私的な領域の規範としては、家父長主義や伝統的な家族主義がありました。
しかし、1945年の敗戦を機に、こうした私的領域の規範を私たちの親や祖父母の世代は、すべてが戦争につながったとして「よくないもの」と思うようになりました。あの戦争を反省する上で、私的な生活の考え方から変えねばならないのだと考えたのだと思います。伝統的なものは敗戦と同時に、喜んでとはいいませんが、進んで捨てようとしてきたのだと思います。西洋のように強固なキリスト教基盤があるわけでもなく、戦後の日本には私的領域の規範というものがなくなりました。
いま、家庭はどのようなルールで回っているのでしょうか。私的な部分の規範がないので、代わりに公的領域の規範を用いようとしているのではないでしょうか。「家庭内業績主義」とでもいえるような…。
私たちは、どのように家事を共有し、分業し、あるいは愛の生活をつくっていけばいいのかが分からないので、公的な部分の規範を用いて、何をどれだけしたのかで判断しましょう、ということにしてしまったのです。
「あなたと私はどちらがたくさん家事をしているか」
「私が保育園に子どもを迎えに行くのであれば、あなたは皿を洗わなければならない」
「私がたくさんやっていて、あなたがやっていない」
夫や子どもと家族内で競争をしているわけで、大変気分が悪い。「家庭内業績主義」で家事を分担しようとすると、どうも楽しくないというふうになっていきます。
「高校生になったのだからごはんぐらい自分でつくりなさい」、逆に「あなたは大きくなったのだから、何もやらなくてもいいわよ」といったことも聞かれます。まるで「家庭内普遍主義」ですね。
私的な領域での関係性のつくり方、あるいはルールのつくり方について、日本人は途方にくれて、仕方がないので公的な領域の規範を私的な領域にあてはめて、家庭でみんなが機嫌悪くなったりしているのではないでしょうか。
写真提供フィンランドセンター、撮影 Ryu Furusawa